2006年 05月 20日
家庭の幸福は諸悪の元? |
いきなりこのタイトルは何???
と思う方もいるだろう。(というかほとんどですよね)
今日、久しぶりに「太宰治」を読んだ。
今日は、何だかおかしかった。天気もおかしかったが、精神的におかしかった。
なんか、意味も無いことにムシャクシャし、訳の分からない言葉が頭を駆け巡り、何をやってもナットクできず、何かが違う、あぁ何かが違うなんて思いながらロクに仕事が手に付かず、何だかイヤなことばかり浮かんできて、帰ってきて靴下を床に投げつけた。
勉強も、そんな状態だから何だかヤル気も起きず、ただ家の中(といっても独り暮らしの狭い部屋の中だけど)グルグルグルグル歩き回り、さてどうしようか、いや勉強しないといけない、と思い机に向かってはみるものの全く頭に入らない。明日洗濯しなきゃなんて、そんなことばかり考えてしまう。
イヤなことばかり考えていると、あの人はなぜああいう言葉を発するのだろうかとか、あの人は一体家庭ではどのような人なのだろうとか、本当に「どーでもいい」ことを考えている自分に気づく。そうしてしまいには、では一体自分はどうなのか?自分はどうあるべきなのか?そうした人達にはっきり物を言えるほど、自分はしっかりしているのか?と自問自答し、自戒し、何も言えない自分に気づき、あきれ、興ざめ、がっかりする。何もかもが嫌になる。
そんな時、俺はいつも太宰を読む。
いつもは「人間失格」を読むのだけど、なぜか見当たらない。
そう言えば誰かに貸したような気もするなぁなんて考えながら、ふと手に取ったのが
「ヴィヨンの妻」
「斜陽」もあって、読みたかったんだけど、これを読んだらハマってしまうので、短編集であるヴィヨンの妻を読むことにした。
そこに出てくる短編の一つが「家庭の幸福」
こんなタイトルだから、一見つつましやかな家庭の一ページを描いた短編かと思いきや、そうではない。中に出てくる家庭は、裕福でもなんでもない、特に女性にとっては全く幸福ではない家庭。飲み歩いて家を空けていた太宰が、ラジオの中に登場するお役人の答弁を聞き、憤慨しながらもそこからそのお役人の家庭を「空想」する話。つまり「全く幸福でない」家庭を築いているのは太宰本人。もちろん小説なのでフィクション・ノンフィクション織り交ざっているが。
なぜ「家庭の幸福が諸悪の元」という結論に至るのか?
まず、世の中で最も大切なものは「家庭の幸福」であるという事。
「家庭の幸福」を得るために、大多数の人々は行動しているという事。
自分の家庭の幸福を得るために、他人の家庭を不幸にしているかもしれないという事。
そして、恐ろしいのは、その「他人の家庭を不幸にしているかもしれないという事」にほとんど、というか全く気づかないという事。
まぁ、書いていて「こりゃちょっとどうかな…」と思わないでもないし、太宰の頃と現在とでは価値観が違ってしまっているので違和感があるかも知れないけど、俺はなかなか深い論理だと思っている。
自分にとって大切なことを守る為に、他人を犠牲にしているという事。
それは真の幸福と呼べるのか?矛盾していないのか?
そんなことを、太宰は書きたかったに違いない。
それを、「家庭の幸福は諸悪の元」という大胆な文章で表している。
太宰治の本を読んでいると、すっと文章が頭の中に入ってくる。
考え方や感じ方が、とても俺に近い。
だから、読んでいて安心する。あぁ、こんな考え方するのって、俺だけじゃないんだと思う。
人間失格を読んで「明日も頑張ろう」と思うのは世の中広しと言えど俺くらいだろうな。
ライフログに「人間失格」とか載せたいけどねぇ…そんなの載せたら変に誤解されかねないので載せてませんが(笑)
さて…何だかスッキリしたので風呂でも入って勉強しますね!
と思う方もいるだろう。(というかほとんどですよね)
今日、久しぶりに「太宰治」を読んだ。
今日は、何だかおかしかった。天気もおかしかったが、精神的におかしかった。
なんか、意味も無いことにムシャクシャし、訳の分からない言葉が頭を駆け巡り、何をやってもナットクできず、何かが違う、あぁ何かが違うなんて思いながらロクに仕事が手に付かず、何だかイヤなことばかり浮かんできて、帰ってきて靴下を床に投げつけた。
勉強も、そんな状態だから何だかヤル気も起きず、ただ家の中(といっても独り暮らしの狭い部屋の中だけど)グルグルグルグル歩き回り、さてどうしようか、いや勉強しないといけない、と思い机に向かってはみるものの全く頭に入らない。明日洗濯しなきゃなんて、そんなことばかり考えてしまう。
イヤなことばかり考えていると、あの人はなぜああいう言葉を発するのだろうかとか、あの人は一体家庭ではどのような人なのだろうとか、本当に「どーでもいい」ことを考えている自分に気づく。そうしてしまいには、では一体自分はどうなのか?自分はどうあるべきなのか?そうした人達にはっきり物を言えるほど、自分はしっかりしているのか?と自問自答し、自戒し、何も言えない自分に気づき、あきれ、興ざめ、がっかりする。何もかもが嫌になる。
そんな時、俺はいつも太宰を読む。
いつもは「人間失格」を読むのだけど、なぜか見当たらない。
そう言えば誰かに貸したような気もするなぁなんて考えながら、ふと手に取ったのが
「ヴィヨンの妻」
「斜陽」もあって、読みたかったんだけど、これを読んだらハマってしまうので、短編集であるヴィヨンの妻を読むことにした。
そこに出てくる短編の一つが「家庭の幸福」
こんなタイトルだから、一見つつましやかな家庭の一ページを描いた短編かと思いきや、そうではない。中に出てくる家庭は、裕福でもなんでもない、特に女性にとっては全く幸福ではない家庭。飲み歩いて家を空けていた太宰が、ラジオの中に登場するお役人の答弁を聞き、憤慨しながらもそこからそのお役人の家庭を「空想」する話。つまり「全く幸福でない」家庭を築いているのは太宰本人。もちろん小説なのでフィクション・ノンフィクション織り交ざっているが。
なぜ「家庭の幸福が諸悪の元」という結論に至るのか?
まず、世の中で最も大切なものは「家庭の幸福」であるという事。
「家庭の幸福」を得るために、大多数の人々は行動しているという事。
自分の家庭の幸福を得るために、他人の家庭を不幸にしているかもしれないという事。
そして、恐ろしいのは、その「他人の家庭を不幸にしているかもしれないという事」にほとんど、というか全く気づかないという事。
まぁ、書いていて「こりゃちょっとどうかな…」と思わないでもないし、太宰の頃と現在とでは価値観が違ってしまっているので違和感があるかも知れないけど、俺はなかなか深い論理だと思っている。
自分にとって大切なことを守る為に、他人を犠牲にしているという事。
それは真の幸福と呼べるのか?矛盾していないのか?
そんなことを、太宰は書きたかったに違いない。
それを、「家庭の幸福は諸悪の元」という大胆な文章で表している。
太宰治の本を読んでいると、すっと文章が頭の中に入ってくる。
考え方や感じ方が、とても俺に近い。
だから、読んでいて安心する。あぁ、こんな考え方するのって、俺だけじゃないんだと思う。
人間失格を読んで「明日も頑張ろう」と思うのは世の中広しと言えど俺くらいだろうな。
ライフログに「人間失格」とか載せたいけどねぇ…そんなの載せたら変に誤解されかねないので載せてませんが(笑)
さて…何だかスッキリしたので風呂でも入って勉強しますね!
by k-open-copen117
| 2006-05-20 22:50
| どーでもいい話