2010年 08月 08日
コミュニケーションについて |
近年、様々な形で「コミュニケーション不足」という言葉をよく聞く。
家庭や職場、近隣住民とのコミュニケーション不足は、知らず知らずのうちにお互いに不審を抱かせ、つまらぬいさかいごとを引き起こす原因にもなる。
結果、大きな事件となることも最近は多い。
俺の職場でもコミュニケーション不足は例外ではない。
あるとき、ふと気が付いた。
仕事が、だんだんと「コミュニケーション」が無くても成り立つようになってきていることに。
グループウェアというソフトが社内に導入され、面と面を合わせなくても決済や承認が得られ、多くのルーチンワークはそれで処理されていく。
確かに仕事は効率的になったが、隣の上司と話もせずに「承認」の通知が来ると、なんだかそのそっけなさに奇妙な恐ろしさを感じたものだった。
「だった」というのは、しばらくすると慣れてきて、それが当然になってしまったから。
でも、相変わらず奇妙な違和感は残ったままだった。
俺は長年、この「奇妙な違和感」の原因は何なのだろうと思ってきた。
でも、考えはまとまるどころか、どんどん拡散されていく。
会社は社会の縮図、とも言うし、職場に限らず、自分が暮らすコミュニティ、果ては社会全体に共通する、何か大きな原因があるのではないか?
どうもこの原因は、実は同じなのではないだろうか?
ウチの会社でも、ある時から「コミュニケーション不足」からくる問題が色々と発覚し、朝礼などで「コミュニケーションをもっと取るように」といった発言も度々みられるようになっている。
そこで、例えばミーティングを増やすなどしてはいるが、そもそもミーティングなどといったことをわざわざやらなくても、普段からお互い声を掛け合っていれば済む話なのではないか?といったことも多い。
確かに好き嫌いの問題はあるかもしれないが…。
書きながら思いだしたことがある。
ここ5年ほどの間に入ってきた若手の新入社員に共通することだ。
特に入社したての頃、同じ職場の仲間や上司に対しては挨拶をするが、他部署の人間に対してはそしらぬ顔で通り過ぎていく。
まるで、そこにあるのは「モノ」であるかのように。
ある部署など、それがあまりにヒドいので他部署の課長クラスからクレームがつき、あわてて上司が指導をしたこともある。
と言って、彼らが挨拶の仕方も知らない人間か、というと全くそんなことはない。
一度何らかのコミュニケーションを取り、お互いを認識すると、以後は気さくに挨拶を交わしてくれるのである。
決して「挨拶を知らない人間」ではないのである。
かく言う俺も、コミュニケーションは大の苦手である。
兄弟がなく、一人っ子だったことも影響しているだろう。
だが、そんな俺でも、社内で会った人間に対して会釈くらいはする。
それは当然のマナーであり相手にたいする気遣いであるからだ。
いや、そういうふうに明示的・暗示的に社会に「教えられた」からだ。
自分が暮らすコミュニティについても、例えば引っ越した先で隣や階下の住人に挨拶に行くと驚かれたり、2年経っても未だに隣の住人を知らなかったり、同じマンションに住んでいるのに挨拶をしてもまるで迷惑だと言わんばかりの顔をされたり、まさにコミュニケーション不全に陥っているかのようである。
何か、そんなに俺は危険な香りのする男なのだろうか(笑)
確かに、もういい年なのに独身という意味では「危険」だが(爆)
冗談はさておき、これらは単に教育的指導の問題なのだろうか?
例えば、家庭の躾がなっていない、とよく言われるが、もし本当に社会が「躾」を重要視するのであれば、自然と家庭でも躾を行うはずである。もしそうでなければ自分の子供は社会からはじかれてしまうからである。
躾を行わなくても生きられる社会(かなり極端ではあるが)があるからこそ、彼らは生き延びられる。そこに疑似的でもあれ社会が存在すれば、そこで生きることができるのだ。
つまり、社会的な要請があればこその「躾」であり、「挨拶」なのだと俺は思う。
我々人間は、今までの歴史において、そうした集団で生きるための仕組み=社会を形成してきていると言えるのではないだろうか。
ここに「コミュニケーション不全症候群」という本がある。
著者は中島梓、1995年初版の本である。
先日、たまたま「コミュニケーション不全」という言葉をググってみた時、この本を見つけた。これは何かの縁だと思い、ブックオフで探して購入。
すごかった、マジで。
これほど衝撃的に、かつ明解に、俺が長年考えてきたことの答えを示してくれた著書は他にない。
ちなみにこの本、オウムの事件を予見した本として一時話題になったらしい。
この本を読み、最も印象深かったのは、
「人間が病んでいるのは、社会が病んでいるからである」
「病んでいる社会に適応しようとするから、適応障害が起きて人間が病む」
というロジック。
俺にはかなりインパクトがあった。
病んでいる社会を作ったのは人間だから、人間が病んでいるのだ、というロジックも成り立つかもしれないが、我々はすでに形成された「病んでいる社会」に産み落とされるわけであり、その外部環境に適応しようとして適応障害が起こり、人間が病んでいくというロジックの方が自然である。
なぜ社会が病んでしまったのか、なぜ多くの人々がコミュニケーション不全症候群になってしまっているのかを、著者の経験・オタク・ダイエットに伴う拒食症や過食症の話を交えながら丁寧に論じている。
そして、最も恐るべきことに、コミュニケーション不全症候群になっていることに多くの人々が気づいておらず、知らず知らずのうちに社会が病魔に蝕まれている点や、そうした社会の中でいきるための処方箋にも触れている。
先に述べた、人間をモノとでも思っているのか挨拶もしない人間が形成された理由が、この本を読むとわかるのである。
1995年初版の本であり、設定は少々古いけれども、15年後の現在は著者の予想通りの世の中になってきていると感じてならない。
オタクは文化となり、ダイエットは常識となったこの社会。
俺のような「奇妙な違和感」を感じている方は、ぜひ読んで欲しいと思う。
ちなみにこの本を読んでから、俺は直接的なコミュニケーションを以前よりずっと重視するようになった。
承認をもらう前に上司に一言お願いしておいたり、頼みごとは直接会ってお願いしたりといったささいなことだけど、できるだけやるようにしている。
コミュニケーション不全、あなたは大丈夫ですか?
家庭や職場、近隣住民とのコミュニケーション不足は、知らず知らずのうちにお互いに不審を抱かせ、つまらぬいさかいごとを引き起こす原因にもなる。
結果、大きな事件となることも最近は多い。
俺の職場でもコミュニケーション不足は例外ではない。
あるとき、ふと気が付いた。
仕事が、だんだんと「コミュニケーション」が無くても成り立つようになってきていることに。
グループウェアというソフトが社内に導入され、面と面を合わせなくても決済や承認が得られ、多くのルーチンワークはそれで処理されていく。
確かに仕事は効率的になったが、隣の上司と話もせずに「承認」の通知が来ると、なんだかそのそっけなさに奇妙な恐ろしさを感じたものだった。
「だった」というのは、しばらくすると慣れてきて、それが当然になってしまったから。
でも、相変わらず奇妙な違和感は残ったままだった。
俺は長年、この「奇妙な違和感」の原因は何なのだろうと思ってきた。
でも、考えはまとまるどころか、どんどん拡散されていく。
会社は社会の縮図、とも言うし、職場に限らず、自分が暮らすコミュニティ、果ては社会全体に共通する、何か大きな原因があるのではないか?
どうもこの原因は、実は同じなのではないだろうか?
ウチの会社でも、ある時から「コミュニケーション不足」からくる問題が色々と発覚し、朝礼などで「コミュニケーションをもっと取るように」といった発言も度々みられるようになっている。
そこで、例えばミーティングを増やすなどしてはいるが、そもそもミーティングなどといったことをわざわざやらなくても、普段からお互い声を掛け合っていれば済む話なのではないか?といったことも多い。
確かに好き嫌いの問題はあるかもしれないが…。
書きながら思いだしたことがある。
ここ5年ほどの間に入ってきた若手の新入社員に共通することだ。
特に入社したての頃、同じ職場の仲間や上司に対しては挨拶をするが、他部署の人間に対してはそしらぬ顔で通り過ぎていく。
まるで、そこにあるのは「モノ」であるかのように。
ある部署など、それがあまりにヒドいので他部署の課長クラスからクレームがつき、あわてて上司が指導をしたこともある。
と言って、彼らが挨拶の仕方も知らない人間か、というと全くそんなことはない。
一度何らかのコミュニケーションを取り、お互いを認識すると、以後は気さくに挨拶を交わしてくれるのである。
決して「挨拶を知らない人間」ではないのである。
かく言う俺も、コミュニケーションは大の苦手である。
兄弟がなく、一人っ子だったことも影響しているだろう。
だが、そんな俺でも、社内で会った人間に対して会釈くらいはする。
それは当然のマナーであり相手にたいする気遣いであるからだ。
いや、そういうふうに明示的・暗示的に社会に「教えられた」からだ。
自分が暮らすコミュニティについても、例えば引っ越した先で隣や階下の住人に挨拶に行くと驚かれたり、2年経っても未だに隣の住人を知らなかったり、同じマンションに住んでいるのに挨拶をしてもまるで迷惑だと言わんばかりの顔をされたり、まさにコミュニケーション不全に陥っているかのようである。
何か、そんなに俺は危険な香りのする男なのだろうか(笑)
確かに、もういい年なのに独身という意味では「危険」だが(爆)
冗談はさておき、これらは単に教育的指導の問題なのだろうか?
例えば、家庭の躾がなっていない、とよく言われるが、もし本当に社会が「躾」を重要視するのであれば、自然と家庭でも躾を行うはずである。もしそうでなければ自分の子供は社会からはじかれてしまうからである。
躾を行わなくても生きられる社会(かなり極端ではあるが)があるからこそ、彼らは生き延びられる。そこに疑似的でもあれ社会が存在すれば、そこで生きることができるのだ。
つまり、社会的な要請があればこその「躾」であり、「挨拶」なのだと俺は思う。
我々人間は、今までの歴史において、そうした集団で生きるための仕組み=社会を形成してきていると言えるのではないだろうか。
ここに「コミュニケーション不全症候群」という本がある。
著者は中島梓、1995年初版の本である。
先日、たまたま「コミュニケーション不全」という言葉をググってみた時、この本を見つけた。これは何かの縁だと思い、ブックオフで探して購入。
すごかった、マジで。
これほど衝撃的に、かつ明解に、俺が長年考えてきたことの答えを示してくれた著書は他にない。
ちなみにこの本、オウムの事件を予見した本として一時話題になったらしい。
この本を読み、最も印象深かったのは、
「人間が病んでいるのは、社会が病んでいるからである」
「病んでいる社会に適応しようとするから、適応障害が起きて人間が病む」
というロジック。
俺にはかなりインパクトがあった。
病んでいる社会を作ったのは人間だから、人間が病んでいるのだ、というロジックも成り立つかもしれないが、我々はすでに形成された「病んでいる社会」に産み落とされるわけであり、その外部環境に適応しようとして適応障害が起こり、人間が病んでいくというロジックの方が自然である。
なぜ社会が病んでしまったのか、なぜ多くの人々がコミュニケーション不全症候群になってしまっているのかを、著者の経験・オタク・ダイエットに伴う拒食症や過食症の話を交えながら丁寧に論じている。
そして、最も恐るべきことに、コミュニケーション不全症候群になっていることに多くの人々が気づいておらず、知らず知らずのうちに社会が病魔に蝕まれている点や、そうした社会の中でいきるための処方箋にも触れている。
先に述べた、人間をモノとでも思っているのか挨拶もしない人間が形成された理由が、この本を読むとわかるのである。
1995年初版の本であり、設定は少々古いけれども、15年後の現在は著者の予想通りの世の中になってきていると感じてならない。
オタクは文化となり、ダイエットは常識となったこの社会。
俺のような「奇妙な違和感」を感じている方は、ぜひ読んで欲しいと思う。
ちなみにこの本を読んでから、俺は直接的なコミュニケーションを以前よりずっと重視するようになった。
承認をもらう前に上司に一言お願いしておいたり、頼みごとは直接会ってお願いしたりといったささいなことだけど、できるだけやるようにしている。
コミュニケーション不全、あなたは大丈夫ですか?
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by k-open-copen117
| 2010-08-08 00:50
| まじな話